改正著作権法成立

 俗にいう「輸入権」と「貸与権」を内容とする改正著作権法が成立しました。
 立法の最終段階で問題が取り上げられ、適切な運用を求める旨の付帯決議がついたようですが、付帯決議は法的拘束力がないので、実際上はあまり意味がないでしょう。何より、音楽業界にとっては「いつでも規制できる状態」にしておくのが大事なわけで、これさえ通ってしまえば「違反になるかもしれないよ?」と小売に圧力をかけて「自主的に」輸入CDを売らせない、なんてことも可能になるわけですし。

 前にも書いたことですが、著作権法の怖いところは、本当は特定の人間に利益をもたらす既得権なのに、そのことが十分意識されていない点にあります。
「著作者の労力に報いる利益」というお題目は、逆を言えば規制改革で槍玉に挙げられる既得権益となんら変わりありません。
 特許権との比較でいくと、特許権は「新規」で「進歩的」な「発明」を保護するものですが、「発明」は専ら技術的なものであるために、実際上は経年劣化が生じます。誰も使わなくなった廃れた技術は財産的価値が大きく減少しますから、経年に伴う特許登録料の上昇でコストがかさめば企業側に権利を放棄するという選択肢が合理的に生じます。

 しかし、著作権はそうではありません。デジタル著作物は経年劣化が生じないので、著作物の利用価値はほとんど損なわれずに残ります。そしてそれは、著作権が登録を要しない権利であることとあいまって、「創作に必要な費用+一定の利益」という著作権法本来の保護範囲を超過した分野でも、著作物による経済的利益が管理コストを上回り、「永遠に著作権を保持すること」が企業にとって合理的な選択肢になるわけです。本来著作者が死ねば著作に対する労を著作者に与えることはできないから著作権を保護する必要はないのに、この権利が著作者の死後も家族(場合によっては著作とはなんら関係のない相続人)よって行使されうる権利になっているのは、ひとえに著作権が既得権の性質があることを示しています。

 にもかかわらず、この性質が表立って口にされることはありません。著作権強化に反対の人々でさえ、最初に口にするのは「著作権は著作者に還元される限りでは著作者を保護する正当な権利であるが・・・」という言葉です。「著作者を保護する」という目的は、ここでも無条件に支持されています。しかし、著作権保護を強化することは著作者にとって決してマイナスではないのですから、こうした著作権強化反対の人間の主張は自称「著作権者の権利の護り手」である利益団体(企業、業界団体)の主張を打ち破ることは難しいでしょう。

 私は著作者を保護する必要はない、といっているわけではありません。ただ、著作権は上記のように既得権としての性質がある以上、「基本的に正当な権利である」という理解ではなく、「著作者の労に報いるために認められた特恵的な権利である(だから合理的な制約は認められて当然である)」という理解に基づいた主張を展開していく必要があると思うのです。

 こういうと、「著作権憲法上認められた人権じゃないか!!」という人がいるかもしれません。しかし、こうした「著作権憲法上の人権」説は、憲法上の人権は必ずしも経済的利益に直結していないことを失念しています。例えば、憲法第21条の表現の自由、第13条の幸福追求権などは、立派な憲法上の人権です。しかし、「俺には表現の自由(幸福追求権)があるんだ!」といってみたところで、直接お金になるわけではありません。さらに、権利があるという主張自体、場合によっては制約される場合があります。憲法に書かれている人権は、基本的に(1)国に対するものであり、(2)経済的利益に直結せず、(3)人権の相互衝突の調整のための内在的制約がある、という特徴を有しています。では著作権はどうでしょうか。著作権の主張は基本的に私人に対する「排他的独占権」であり、経済的利益に直結します。この点において、著作権憲法上に欠かれている「人権」とはまったく性質が異なるのです。

 「著作者を保護する」という目的の元での著作権の「人権」化の弊害はこれだけではありません。もっと大きな問題は、このような権利論的主張は著作権の永遠の強化スパイラルを生じさせてしまうことにあります。

 ひとつ例を出しましょう。かつて公害問題が社会問題になっていた時期に、「環境権」という主張が有力に主張されたことがありました。それは、「人間は快適な環境の中で生活する権利を有するのだ、だからこの環境権が侵害されたら差し止めや損害賠償ができるんだ」という主張です。
 一見、間違ったことは言っていないように見えます。しかし、この環境権の論者が最後に主張したことは、「大阪で公害が発生した場合、東京の人間が差止請求ができる」「環境権が侵害されたという主張だけで差止請求が出来る」ということでした。公害問題が社会問題になっていた時期とはいえ、こんな主張が通れば日本で工場は操業できません。これが社会的弊害を起こすことは明らかでしょう。にもかかわらず、法曹界(特に弁護士の間)ではこの環境権が大真面目に主張されていました。先に対する弊害に対する答えはこうです。「環境権は人間にとって重要な権利である。守れないような企業は潰れてしまえ」

 この話の中に、権利論の主張の問題が集約されています。つまり、権利論は当事者の一方の利益(権利)が「正義」とされるために、それに反する主張の一切が捨象され、無限に強化されてしまうという点が問題なのです。環境権の論者にとって、自らの「環境権」こそが守られるべき正義で、それでどんなに弊害が生じようと、そんなことは知ったことではありません。それは「正義の実現のためには当然の犠牲」なのです。また、「正義」の実現には終わりがありません。より望ましい状況の実現のために、一切の妥協は不要になります。妥協する「正義」など「正義」の名に値しないというわけです。

 これを著作権で考えてみましょう。著作者はその著作に関し全ての権益を独占した方が「著作者を守る」という「正義」の実現にとって望ましいのは明らかです(中には行使したがらない人がいるかもしれませんが、それは権益独占を阻む理由にはなりません。その人が行使しなければ良いだけの話ですから。)。それゆえ、権利論的主張を許す限り、その方が保護すべき権益の内容は無限に広く、そして強力になっていきます。

 例えば、「著作物の批評をする権利」などがこれに入ります。
 もちろん、現在の著作権法の中にこんな権利は認められていません。
 しかし、自分の著作をけなされることが好きな著作者はまずいないでしょう。著作を作って公表した以上、一人でも多くの人間に賞賛してもらい、けなす人間は一人でも少ない方がいいというのは著作者として自然な感情です。ここから、「ネット上で俺の著作物の批判的批評をするなら俺に許可をよこせ(ないし金を払え)」という主張が出てきても何らおかしくありません。そして、この主張は他の著作者にとっても益になりこそすれ、害にはならないから、著作権強化の流れとして入ってくることは十分考えられます。
 困ったことに、著作権の場合はこれにさらにビジネス上の利害が絡みます。かような行為に対して金銭を支払わせることができれば、企業にとっては敵対勢力の排除や、経済的利益にそれなりのメリットが生じます。なんせ今までタダで行わせていた行為に対してお金を請求できるわけですから。払わない人間が続出したとしても、ITを利用した課金システムが確立できればコストは安く済みます(現状では無理ですが、RFIDタグの普及などで個人管理コストが下がれば十分可能でしょう。過去の例からしても、技術的障壁は本質的な障害になりえません)から、企業は合理的にそのような選択をとることが考えられます(例えば、みんなに迷惑がられているのに、なぜアダルトのスパムメールがなくならないかを考えてみてください。たとえ1000人に1人しかアクセスしなくても、その一人で利益が出るからスパムメールはなくならないのです。)。ここで「表現の自由の侵害じゃないか」という反論は意味をなしません。かように主張する著作者にとって、自分に利益のない表現の自由など「著作者を守る」という「正義」の実現ためには論ずるに値しないのです。また、「批評するなとは言わない、批評するならお金をくれといってるに過ぎないんだから侵害じゃない、第一、俺は国じゃないんだから、憲法の人権規定の直接適用はない」と反論することも可能でしょう。

 「著作権」を「著作者保護という観点から当然の権利」と解する限り、こうした傾向はいずれ生じるでしょうし、実現するでしょう(これを私は「著作権が人権に優越する」状況と呼んでいます)。基本的土俵を共有する以上、今の反対者の主張は本格的な歯止めにはならないと思います。かような状況を防ぐためにも、経済的利益をもたらす著作権はあくまで特恵的な権利に過ぎない、という理解から反対論は進める必要があるでしょう。