日本のコンテンツ保護は厳しすぎる――なぜ戦わないのか?(ITMedia)

Intel副社長であるドナルド・ホワイトサイド氏と、デジタルホームコンテンツ部門ディレクターのジェフリー・ローレンス氏に対するインタビュー記事です。日本の消費者はなぜ戦わないのかという疑問が呈されています。

今回の著作権改正を見る限りでは、blog等で反対表明をした方は随分いたのではないかと思うのですが、法案に影響を与えることはできませんでした。ライターの方は日本人は団体交渉が好きではないのではないかとして、blog等による意見表明を期待しておられるようですが、今後もブログによる反対が法案の成否に影響を与えることはないでしょう。権利強化の側は「著作権ビジネス」という現世的な(悪く言えば俗物的な)金銭的利益を追求しているわけですから。消耗戦に持ち込めば理念的な意味合いの強いblog等による反対運動をすり潰すことは十分に可能ですし、またそうなるでしょう。

結局、状況を変えるにはライターの方が言われる「日本流のやり方」を捨て去る必要があるのではないかと思われます。

日本人には、「自分の利益にならないことは関心もつ必要がない」と考える傾向、そしてなにより体制維持者に対する妄執といえるほどの撞着性を有するという特徴があります。特に後者はかなりの重症で、本来少数者による「便所の落書き」であったはずの場所(例えば2ch)ですら、(いいか悪いかは別として)いつの間にか体制側に立つ意見が多数を占めているという現象がしばしば起こります。
 その言の中でしばしば登場するのが、「おめーら、反対のための反対じゃんか。建設的な議論をしろよ」という発言です。これは体制側への撞着性をよく表した言葉です。ここでは「反対」という言葉が否定的なニュアンスで使われていますが、もともと「反対」とは「異なる意見を持つ」という意味なのですから、それ自体批難されるべきではありません。ここでいう「建設的な議論」とは得てして「体制側に圧倒的に有利な前提のある議論」であることが多く、私はこの「建設的な議論」を挑んで勝利した改革派の勢力を知りません。しかし、無意識のうちに「反対(現体制改革)=悪、賛成(現体制維持)=善」という思考方法が身についてしまっているがために、日本人はこの言葉を説得力のある発言と考えてしまうのです。

 こうした傾向が強い日本では、個人の自発的活動による成果はほとんど期待できません。ある人間が権利の適正化を要求しても関心を持つ人間はごくわずかで、同じ利益を享受するはずの人間からは「反対のための反対ではなく、建設的な議論をしようじゃないか」と後ろから槍を刺されるようなことを言われてしまう状況です。元々力が弱いのに、各個撃破されかつ内部での抗争もありというのでは勝てるはずがありません。

ですから日本では他の国に比べ一層、「組織」による意見表明と交渉(団体交渉)が必要になってくるのです。アメリカの消費者団体は力が強いことで有名ですが、日本で商品・権利のバランスをとるためには、クラスアクションで当事者となりうるような組織上の力を持つ「消費者団体」を設立することが不可欠です。少なくとも、「消費者センター」を行政がおまけ的に行い、対象範囲が極めて限られる主婦連合会が代行して行っているような状況は何とか変えていかないといけません。