論題「なぜロースクールの講義は失敗に終わるのか」

 ロースクールでは、法律実務に則した実践的なかつプロセス重視の教育が施され、柔軟な思考方法を持つ法曹家を養成することが目的とされていました。もし構想が正しければ、ロースクールを修了した学生は即戦力として十分な実力を兼ね備えた新時代にふさわしい法曹に成長できたはずです。

 しかし、現実の講義においては、ロースクール生からの不満の声が多数聞かれます。その多くが「本当に実用的なのか分からない」「学部の授業と変わらない」「教授は指導力に欠けるのではないか」というものです。

 現行のロースクールの体制において、構想通りの教育は実現可能なのでしょうか。結論から言うと、その答えは残念ながら、

『現行の法学の教授や弁護士の下では構想通りの教育は実現できない』

というものになります。しかも、これは個人のやる気がないという問題を超えた、構造的なものであると考えます。

1 変えようがない試験形式

 新司法試験構想が持ち上がった当初、新司法試験は「予備校に頼らない、新しいタイプの試験問題を出題する」と謳われていました。
 なぜこのようなことが提唱されたのか、その理由は、大学における法律の教授が旧司法試験における予備校偏重、法的論点に対し最も有効な論証を経験的に抽出した、いわゆる『論点カード』配布し、それをひたすら覚えこませるような勉強法に対して強い不満を抱いていたことにあります。

「近頃の法曹を志す者は、論証を覚えることばかりに熱心で、柔軟な法的思考能力が足りない」

 こうした旨の発言を、法律の教授の多くが盛んに繰り返していました。彼らは、その不満の原因を旧司法試験の試験内容に求めました。つまり、旧司法試験の試験形式が、論証カード型の受験生、ひいては彼らの言う『柔軟な法的思考』を身につけていない法律家を量産していると考えたのです。

 ここで問題なのは、彼らの言う『法的思考』とは一体何なのかということです。これが明確に定義できれば、旧制度がどの点で、どの程度弊害を生じさせていたのかを明らかにし、新制度はどのようなものでなければならないかの指針を得ることができるからです。

 しかし、この問題において、法曹界に明確な合意は存在しません。これは法哲学の問題における根本的な問題の一つになっていますが、多くの法律の教授は実定法が専門で法哲学が専門な訳ではないので、かかる分野の議論が決定的な意味を持つわけではありません。

 文献等を見る限りにおいて、およそ実定法学の教授は以下のような考えを持っているようです。

『法的思考とは、社会的正義と公平を追求し、法律の条文解釈を通じ、当該条文の文言ないし法律間の矛盾・抵触から生じる問題について、当事者にとっての最適解を求めようとする思考方法をいう』(定義①)

 ここで特に重視されるのは、当事者の公平、つまり均衡を保つことです。この考え方に従えば、ある問題に対し複数の解決法がある場合に、解決により生じる当事者の利益の総和が最大になるように権利義務を配分する解を求められる人間が、最も優れた『法的思考』の持ち主であるわけです。

 しかし、いわゆる法曹の中には、この考え方では成功できない職種が存在します。それは弁護士です。彼らにはクライアントがおり、その者の法的要求に答えるのが彼らの仕事です。もしそこで、クライアントに対し『あなたの意見は××の点で社会全体から考えて均衡を欠くから認められません』と言い、法廷でクライアントの意向と違う弁論をする弁護士がいたら、クライアントは彼を首にするでしょう。
 もし、弁護士業界において優れていると評価を受ける弁護士が『法的思考』に優れた人間であるとすれば、弁護士における『法的思考』とは、以下のようなものになるはずです。

『法的思考とは、クライアントの要求を最大化するようにクライアントの主張を法廷(ないしそれに順ずる場)において説得的に主張できるように加工・応用する思考様式をいう。』(定義②)

 ここで最も重視されるのは、裁判官に「納得した」と言わせる『説得力』です。すなわち、法廷の場で全体の流れを読みながら、相手の論証を崩しかつこちらの論証をアピールする弁論の力、ということになるでしょう。

 今までの話をまとめれば、『法的思考』には定義①と定義②の二つの方法があることになります。

 さて、旧司法試験が測っていたのはいかなる能力だったのでしょうか。

 基本的に、旧司法試験では定義②を正確に測ることは困難といえます。弁論術の優劣は終局的には生身の相手がいる状況、つまり弁論で、しかも相手との関係における程度でしか図ることができないからです。
 反面、①は論点の重大性と文章量のバランス、衡量段階における衡量要素の数及び要件の適切さ等をみることで、②に比べればある程度までは図ることが可能です。しかし、何をどの程度重視するかは個人の価値判断によるところが大きいので、これも完全に図ることが可能だとはいえません。結局の所、正確に測れるのは(1)実務能力が一定以下である点(誤字脱字、文字が読めない、不明なナンバリング、書き途中で終了等)(2)法律の知識不足(論点未抽出、基本的な法律用語の誤用、参照条文の誤用や不足等)という減点(不合格)要素のみということになります。

 つまり、旧司法試験に不満を抱いていた教授が新司法試験に求めた『柔軟な法的思考』とは、定義①の測れない部分と、定義②を指していることになります。

 これは『論証カード』に対する教授の不満とも一致します。『論証カード』の全てを正確に(そのまま)覚えていれば、問題が論点の集合とする限り法的知識と論理展開((2)の部分)、そして最低限合格といえるだけの衡量要素及び価値付け(①で計測可能な部分)を網羅することは可能なはずです。これで不満だということは、残りの①の測れない部分と、定義②が足りないという趣旨だということに論理上はなります。

 では、現在構想されている新司法試験でかかる部分を計測することは可能でしょうか?

<定義②を計測する>

 構想されている新司法試験の試験形式は、第一番目の関門で早くも頓挫します。定義②が正確に測れない理由は、それが「書面によるテスト」であることに由来しています。新司法試験がどんな試験内容であれ、それが「書面テスト」である限り、定義②の正確な計測は不可能です。
 もしこれを重視したいなら、全受験生を一堂に集めて『新司法試験対応弁論チャンピオンシップ』なるものを開催し、一定の成績を治める(合格順位以内に入る)ことを法曹資格取得の要件にする等の方策が考えられますが、開催費用はおそらく相当な高額になってしまうでしょう。

<定義①で測れなかったものを計測する>

 定義②に目をつむったとして、では定義①の計測しきれないものを新司法試験で補足することができるでしょうか?
 定義①が旧司法試験で完全に計測できないのは、「最終的に何をどの程度重視するかは人の主観的な価値観に関わり、客観的な優劣を付けられない」点に由来しています。
 これを客観的に計測するのは不可能です。あえて法律的に言えば、これを無理矢理計測することは”裸の利益衡量”をすることにほかならないのです。
 例えば、著作権と科学技術の自由のトレードオフの問題が出題されたとしましょう。基本的法律知識、利益衡量項目、文章展開力が全く同じA君とB君がいたとします。この場合、どちらが優れていると評価することが可能でしょうか?これで優劣が出るなら、それは審判者(つまり採点官の教授)の「好み」によってしかなく、それを採点基準とすることは新司法試験が客観テストでなくなることを意味しています。

 以上より、少なくとも定義①、定義②に関する限り、現在構想されている新司法試験が旧司法試験と異なる性格を持つことはない、という結論になります。

<新司法試験で『新しい試み』を出せるか?>

 以上のことを踏まえても、なお反論があることでしょう。それは「法科大学院の教育から生じた、今までにない『自由な』発想からの問題が作られるべきだし、そうなるはずだ」という意見です。ロースクール構想に熱心な教授は、おそらく新司法試験にはこうした問題がふさわしいと考えられていることでしょう。

 ここにおける『自由な』という意味においては、①法科大学院ごとの特色が出るような(各大学院にふさわしい)という意味と、②今までの旧来の思想にとらわれない(斬新な)という意味の二つが考えられます。これは現在構想されている新司法試験で実現可能でしょうか?

<①について>
 各大学得意分野の問題を出題することができれば、旧司法試験にはない特徴を出すことは、確かに可能です。
 たとえばバイオ分野の法に関する専門コースを持っている大学院が、『バイオベンチャーを立ち上げたい。会社が軌道に乗るまでに予想される法的問題を挙げ、どのような予防的解決策を取れるかについて述べよ。』等の問題を出すことができれば面白いかもしれません。
 しかし、この方策を採るのは構想中の新司法試験では不可能です。この試験はあくまで全受験者統一内容のテストとされているからです。この分野があるA大学と、ないB大学がある場合、この分野を出すことは大学間に致命的な格差を生じさせ、もはや客観テストではなくなってしまいます。同様に、A、BがやっていてもC大学がやっていなければ、やはり客観テストとしては成り立ちません。客観テストとしての外観を維持しようと思えば、結局全ての大学で行われている科目についてしか試験を実施できず、各法科大学院の個性は新司法試験には全く関係のないことになってしまいます。

<②について>
 教授の中には、学説学説と形式ばらないで、もっと自由な発想をしてほしいと考える方がいます。法務省の方針である、『若い人を取りたい』というのも、元は同じ発想なようです。
 問題例を挙げれば、『あなたは、商法における新しい会社形態を生み出し条文化する作業を任された。どのような条文を作ったらよいだろうか?理由を挙げながら、最も妥当と思われる条文案を示しなさい。』といった問題でしょうか。確かにこうした問題なら、旧来の司法試験にはない問題といえます。

 しかし、これにもこれの客観的優劣をどうやって付けるのか、という難問があります。もし上のような問題が出題された場合、おそらくはありとあらゆる会社形態が答案として出てくるでしょう。これを判断することは、法律に限らず経済・社会の知識を併せもち、誰しもが政策立案能力を認めるスーパーマンが判断しない限り、その判断に客観性を付すことは困難になります。そんなスーパーマンが仮に存在したとしても、一人で大量の政策を短時間のうちに判断することは不可能です。かといって、商法の先生に判別が付くように旧来の学説を踏まえたかどうかで判別されるのでは『斬新さ』など出しようがありません。
 つまり、学説以外の理由で説明したとしてもそれは採点の対象になりうる『法的な議論』としては評価されないでしょうし、評価のしようもありません。そして『学説』に依存する限り、少なくとも書面テストで『自由』な発想を期待するなどそもそも無理な話なのです。

<小括>
 以上より、定義①、定義②に加え、独自性の観点からも、旧司法試験と違う傾向の問題を現段階での新司法試験構想で打ち出すことは無理といえます。従って、受験生は旧司法試験と同じ型の勉強をしなければならなくなり、各法科大学院独自のカリキュラムは(少なくとも法曹資格の取得を第一目標とする限り)無駄、という結論に至らざるを得ないのです。

2 試験と違う勉強方式

 ロースクール独自のカリキュラムが無駄であったとしても、ロースクールで従来の予備校以上の講義がなされ、予備校に行かずとも済むのなら、年間150万円の学費もそれほど高くはないかもしれません。
 しかし、この点もまた、現在のロースクール体制では臨むべくもないのが実情のようです。

ロースクールにおける学生のニーズ>

 前述したように、旧司法試験と新司法試験の性質が同じものになることが避けられない以上、法曹資格の取得を目指す合理人は『新司法試験の合格』という御旗の元、旧司法試験と同等の勉強を継続せざるを得ません。そこで教員に求められるニーズは、①法律概念を明快に語る能力と、②論文対策用のスマートな記述法を伝授する能力、そして③自分の書いた論文を添削し、適格なアドバイスを授けてくれる熱意を持つ人物ということになるでしょう。特に③は重要で、受験生が高い代金を支払って予備校に通う理由の多くがこの点にあります(短答は自分で答えが確認できますが、論文の評価は自身では困難であるためです)。
 では、ロースクール教員は、かかる期待に答えているでしょうか?

 その前に、法学の教授なるものが一体何をして生活しているかについて簡単に述べておきましょう。

 彼らの仕事は基本的に、(1)自分の研究テーマにしている論文(単行本)の執筆、(2)依頼された論文の執筆、(3)研究会の出席・判例評釈を中心とする発表、(4)審議会等における立法提案、(5)講義、(6)大学における運営活動に分類されます。当然ながら、彼らの最大の関心は(1)にあり、学会の中心を占める存在になって体系書を書き上げるのが一つの『上がり』とされています。

<①について>

 『研究者』たる以上、彼らが相当の勉学を積んでいることだけは間違いありません。少なく見積もっても学生の10倍は勉強をしているし、思考能力も優れています。
 しかし『研究者』の専門知識は非常に偏っています。彼らの探究意欲は(1)にのみ向けられており、その点に特化していることが評価の源泉になるためです。そのため、司法試験を経験した教授以外は自分の研究分野以外のことにはさほど関心がありません。講義で間違わない程度に教えられれば、彼らにとっては十分なのです。

 さらに、『研究者』にとって日本法自体への関心は驚くほど低いのです。既に大半の分野で日本法自体の研究はやり尽くされていて、現在における研究者の論文の大半が外国(主にドイツ・フランス・アメリカ)における著名な学者の学説紹介をメインテーマとしています。そこにおいては日本法への言及は「日本法への示唆」という形でおまけ程度に付されているに過ぎません(通説が強固で崩しようがなかったり立法でしか解決できないと、彼ら自身分かっているのです)。こうした状況の下では、『研究者』に明快な日本法の解説者たることを求めるには限界があります。

<②について>

『研究者』にはかかるスマートな記述法をマスターする必要性がこれまでありませんでした。試験答案においては、内容を既存の通説(ないし有力説)に従って簡潔にまとめることが求められます。しかし『研究者』は自分の説を特徴づけるため、また支配的影響力を持つ教授の意向に真っ向から逆らったりせぬよう、婉曲的な表現を用いることが要請されます。

 また、主要な発表形態である判例評釈も、試験における論述とはスタイルが全く異なります。
 判例評釈においては下級審や判決の事実関係、判例の射程、判決後の下級審判例の動き、判例に対する印象や表現方法、学説の展開についての考察が求められます。いわば無整理な判例の山から流れを発見するのが『研究者』の役割です。
 しかし、論文試験において大切なのはそれらの点ではありません。大事なのは論点に関する判例を知っているかという点と、それを応用事例に上手く当てはめることができるかという点、現時点における通説と有力説程度の学説を簡潔にまとめられるかという点が重要です。いわば既に整理された判例群をいかに過不足なく表現するかが問題なのであり、『研究者』がとるアプローチとは根本から姿勢が異なっています。『研究者』たる教授が判例評釈の重要性を繰り返し説くにもかかわらず、評釈を重ねても論文の表現力が比例的に向上しないのはこのためです。

<③について>
 既に述べた通り、『研究者』は文字通り『研究』に伴う『研究者』内部での評価のみによって査定され、『研究者』自身もそれを望んでいることが普通です。彼らにとって講義とは評価の対象でなく、『研究』の合間のやっかいな作業に過ぎません。従って、講義の質向上のインセンティブに欠けます。もちろん、ロースクール教育に情熱を傾ける『研究者』も数多くいます。しかし全体的な傾向が上記のようなものであるために、その『研究者』のみに過大な大学院経営上の負担がかかり、彼らが疲弊してしまう傾向が見られます。このような状況では、いくら情熱があっても論文の添削をする暇など作りようもないのです。

<弁護士はロースクールを救えるか>

 『研究者』たる教授が教員としての適格性を欠くとすれば、もう一つの担い手である『弁護士』が主体となれば問題は解決するのでしょうか。残念ながら、そう簡単には問題は解決しないのではないかと思われます。

<実績ある弁護士を講師として招請できるか>

 弁護士になる人間は、当然のことながら弁護士の仕事をしたいと希望して法曹を目指した人間でしょう。弁護士の仕事は法廷、法律事務所ないし企業で法的紛争に対処することであり、ロースクールで教員として働くことは弁護士の本質的仕事から外れ、弁護士活動を制限されることになります。
 さらに、弁護士として実績のある人間には多数の仕事依頼があり、報酬も高く、かつ勝訴率も高いことが想定されます。これに対し、ロースクール教員は基本給+講義給の固定給であると考えられ、流動性が失われることになります。従って、仕事に対する性格傾向に反することも鑑みれば、経済合理的な思考を持ち、かつ実績のある弁護士が「ロースクール教員として赴任する」という選択を選好するのは、①本人が経済的合理的思考を敢えて取らないとき(ロースクール制度に感銘を受けた等)又は②ロースクールが支払う報酬と社会的名誉の換算効用の合計値が自己の弁護報酬相当額よりも相当程度高いとき、に限られます。さらに、「ロースクール教員」を選択した場合でもロースクール間で獲得競争が生じることに鑑みれば、弁護士に支払う報酬はさらに高額になります。
 この結果、有能な弁護士を獲得できるのは①社会的名誉が極めて高く、高額の弁護士報酬を低減できる大学か、②生徒に全額転嫁し、学費が高額になってもなお生徒が入学を希望するような大学、に限られることになります。かかる条件を満たす法科大学院は極めて少ないでしょう。
 反面、①本人が経済的合理的思考をし、かつ②弁護士報酬よりもロースクールの固定給の方が高いであろうと判断した弁護士は「ロースクール教員」を選好するであろうことが導かれます。

 以上より、有能な弁護士を獲得できる法科大学院はごく一部で、それ以外の大学院は経済的合理的思考をしかつあまり有能という意識のない、リスク回避的な弁護士がロースクール教員として雇用されることになります。必然的に、後者の弁護士によっては学生が当該弁護士から伝授するノウハウの質は薄いものにならざるを得ません。

<弁護士による教育は試験対策として有効か>

 弁護士は司法試験を突破した人間ですから、一般的には純粋な『研究者』よりは論文教育に対する適性が高いと推測されます。
 しかし、『研究者』と学生の求める人間像に齟齬があったように、『弁護士』もまた学生が求める人間像と完全に一致しているわけではありません。それは、試験の問題が主に定義①(正確には、①の計測可能な部分)の法的思考を問うものであり、弁護士は職業的に定義②の法的思考を常とするためです。
 論文の指導者としては定義②の法的思考に染まらず定義①の要素を強く残していて、かつ試験ノウハウの有効性が保たれている合格直後の弁護士を教員にするのが望ましいのですが、その時期は当該弁護士にとって最も重要なキャリア形成期にあたり、ロースクール教員を選択することは弁護士としての活動を事実上不可能にする恐れがあります。従って、その人間を実際に獲得するにはやはり相当程度高価な報酬が必要になると思われます。

<小括>

 以上より、新司法試験が旧司法試験と同一の形式に因らざるを得ないことを前提にすると、『研究者』たる教授は法科大学院生のニーズに答えるような教員としての適性を欠き、弁護士にしても、社会的名誉あるいは報酬の少なくとも一方が高くなければ大学がロースクール教育のよき中核となりうる人材を雇用するのは難しい、という結論になります。

3 総括
 かかる結果から、上位数校以外のロースクール(特に中・下位ロースクール)では深刻な教育人材の不足が生じ、法曹資格を得ようとする学生は合格したければロースクールの講義を軽視してでも予備校にも通わなければならないという事態が、高い確率で生じることになると思われます。

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 私はロースクール生じゃないが、年間150万払って合格率34%じゃ浮かばれないだろう。
せめて最後は「ロースクールに来て良かった」と思えるようなものであってほしい。
相変わらず予備校に受験生を奪われるなら、一体何のための制度変更なんだか分からない。

 2chで「『ロースクール改革』は『ゆとり教育』に似ている」という意見があったが、これにも私も同感だ。優秀だが勉強ばかりをしてきた文部官僚が「あのころ遊んでいれば」と憧憬して構想した『ゆとり教育』と、法学の勉強ばかりをやってきた法学部の教授や弁護士のお偉方が「あのころ、学説暗記ではなく自由な思考様式を身に付けておけばよかった」と憧憬して構想したロースクール制度。よく似ている。

 共通していることは、「ないものねだりによる自己の否定」ということか。
後先考えない点も同じだね。そして、おそらく制度が失敗することも。