「ライト・アカデミズム」の先駆け?

 
 昨日、上記の本の作者の方の出版記念パーティに行ってきました。
 ネット界ではかなり有名な方が多数来られていて、目の保養になりました。
 自分の仕事とは直接に関わり合いがないので、なかなか声をかけづらいのは残念でしたが。

 この本は、「ネットワークには固有の法律が存在するのではないか?」という問題意識からスタートし、法制史の話を絡めつつ、「法律(あるいは政治)とは何か?」という本質的な部分まで切りこんで話を展開されています。口調は砕けていますが、話の内容はいたって真面目なもので、こういう本は今までそんなになかったんじゃないかなと思います。

 これから法律家を目指そうという学生の方は是非一読をお勧めしたいですね。 

「システム」と法の絶望的な関係

 修論を書いているときに感じ、仕事をして実感したことですが・・・。
 (主としてITを利用した)「システム」というのは、法と絶望的に相性が悪く、
 両者がかち合うと大抵は法が敗北するという結果を招くような気がします。

 法と「システム」は、どちらも基本的には「ある場合には(if・・・・・・)、こうなる(then・・・・)」というルールの積み重ねですが、法はあくまで日本語によって記述される以上、「ある場合には・・・」の部分について、複雑な条件設定ができないという制約があります。
 基本的には、法は「ある要件を満たす場合」か 「ある要件を満たさない場合」のYes/No判断しか行えず、その点で、「システム」によるルール構築に比べはるかに単純なものしか作れないという宿命にあります。
 
 次に、法は外部から与えられるもので、内部的な事情を斟酌して構築されるわけではないという点です。例えば、会社において業務の効率化を図るのに、法は「抵触することはないか」という消極面で問題になることはあっても、積極面で貢献できることは限られています。法とは「みんなが守るべきルール」であり、全ての法を順守したとしても、競争優位な状況を作り出せるわけではありません。差別化を図ることが難しい時代、企業が他社に比べ競争優位を保とうとするなら、どうしてもどこかで「チャレンジ」しなければならない事態が必ず生じてきます(コンプライアンス至上主義に私が空しさを感じるのは、こういう点です)。
 これに対し、「システム」は、基本的に内部事情に沿って構築されるものですから、(上手くいくかはともかく)、業務効率化という積極面をアピールすることができます。この違いが、上位者に対する説得力の差としてどうしても出てきてしまいます。

 第3点としては、「システムは事後的に変更できない」という点です。
 無論、法とて一度制定された以上簡単に変更したりは出来ないのですが、法には「解釈」という手段が残されています。これに対し、「システム」では、設計段階で構想に盛り込まれていないと 「●●法からすると問題だけど、正しくやろうとすると○○システムにデータを入力できない」という事態が発生します。この場合、システムを停止して組みなおせばよいのですが、常時稼動していることが想定されている基幹システムの場合、システム停止は万が一にもあってはならない事態ですから、「○○システムに入らない以上、●●法に基づく問題の検討は断念せざるを得ない」という結論になってしまいがちです。対社会では、法に優先するルールなどないはずですが、対内では「システム」が「法」に優先し、法が検討されなかったり極めて無理な解釈方法がとられることは頻繁に発生する事態なのです。

法は飲み込まれてしまうのか?

 「システム」は、法の本質的部分にもそろりと侵入を開始しています。現在導入が検討されている電子債権等がその代表例として挙げられるでしょう。電子債権取引に必要な仕組みが「システム」により作り上げられ、法がそれを事後的に追認するものにすぎなくなるとき、法(特に私法)が今まで守り続けてきた「ルールを決定するもの」としての座を維持し続けることができるのでしょうか。
 法文が「詳細は、別途に定める『システム運用マニュアル』に定めるものとする」という記載のみになる日は、実はそんなに遠い日のことではないのかもしれません。